昭和25年(1950)に当時の上南部村(かみみなべむら)役場職員に採用されてより今日まで、55年間にわたり地方行政一筋に生きてきた。その間に助役7年、村長23年、町長2年を務め、町村合併も2度経験した。昭和の合併のときは合併事務担当職員であった。平成の合併のときは村長であって、合併協議会長として合併に携わった。当町は、和歌山県内では合併第1号であった。
県から示された合併プランの主体は、広域市町村圏を組織する10ヵ市町村の合併であったが、それは、理想とするものの現実には無理があった。
住民意志の大向は、隣接2町村の合併を望んでいたことと、もう一つこれまで、まち(むら)づくりのあり方として個性あるまちづくりが推奨されてきたし、私も同じ考えの基に個性豊かなむらづくりを推進してきて、その成果が顕著に現れていたので、それが大同合併となると折角今まで培ってきた個性が希薄化し、また埋没してしまうことになり、今までの苦労とその成果は、水泡に帰すという矛盾が生じることも一因となって、広域合併の任意協議会から離脱して2町村合併の道を選んだ。
2町村合併協議は、互譲の精神と相手方の批判・言辞厳禁を基本として取り組んだ結果、極めてスムーズに事が運び、合併新町のまちづくりも順調に軌道に乗せることができた。
こうして誕生したみなべ町は、梅の産地であり、ブランド品種「南高梅(なんこううめ)」の誕生の地である。
みなべ(南部)の梅は、徳川時代から栽培されていたが、近代農業として定着したのは明治初期からである。
現在、全国の梅生産量は平年作で年約10万トン、そのうち和歌山県内で約6万トン、みなべ町で約3万トンが生産されている。
本町に町立「うめ21研究センター」という施設があり、梅の栽培から加工まで一貫した試験研究に取り組んでいる。当センターは、昭和62年に全国市町村に一律1億円ずつ配分交付された「ふるさと創生資金」を原資として設置したものである。
当センターは単なるハコモノではなく、実際の活動により梅干の品質向上とか土壌改良などに大きな効果を上げている。例えば従来、各農家で生産する梅干は、A級品率が65%程度であったのが、80%ぐらいまで向上させることができた。
その15%の価格差を試算すれば1年に約5億円の増収となる。以来18年間に単純計算で90億円の増収をもたらしていることになる。
さらに、当センターが和歌山県立医科大学の医師グループと提携して、健康食品たる梅干の医学的効能試験研究に取り組み、この度その成果を得ることができた。既に医学会にも発表され、いわゆるお医者さんのお墨付き健康食品「みなべの梅」となったのである。
これを今後の梅干の販売戦略の一環に組み入れていくことにしている。
このように、あのふるさと創生1億円交付金が使いようによって、これだけの効果を上げているが、おそらく他に類を見ないのではないかと思う。
私は、もともと役人の社会は不向きであったので、役場職員に勧誘されたときも断り続けたが結局根負けして、この社会に足を踏み入れたことがとうとう半世紀を超える公務員人生となった。
助役2期目の後半になって、村長選挙に出なければならない羽目になって立候補した。現職相手の大変な激戦だったが、おかげで当選することができた。我ながら思わぬ人生の展開に驚きつつ、今度は、地方政治家の端くれとなって地方行政に邁進した。
2期目から連続5回無投票になったので、ずいぶん楽をさせてもらったが、平成の合併でまたもや新町長選挙に出ないと行けなくなって、性懲りもなく立候補し、このときも激戦になったが当選できて今に至っている。
半世紀以上公務員をやってきたが、いつの時代でも公務員に対する風当たりはきついものがある。特に現在は、今までに無い厳しさがある。もちろん公務員側にも責められても仕方のない面が多くある。賭博・飲酒運転・セクハラなど通常あってはならないことが後を絶たない。誠に恥ずかしい限りであるが、これらは結局公務員としての資質の欠如によるものであろう。
公務員職にもふた通りあって、一つは役所の机上で事務だけを執っていればよい職と、もう一つは日常直接一般住民に接する仕事である。市町村職員には後者の方が多いが、これがまた大変な仕事である。役場の仕事は、人対人であるから、いくらコンピューターやインターネットなどが発達しても人対人の仕事は人でなければできない。
市町村行政のほとんどは、住民との直接対話によって成り立つものであるから、そこは単なる事務的能力だけで務まるところでなく、豊かな人間性・社会性・社交性などを兼ね備え、また知識と共に行動力・忍耐力が求められる職場である。
とにかく納税相談とか苦情相談や用地交渉などは、自動販売機やコンピューターではできないということだ。
私が町長(村長)として職員に訓示してきた一片を思い出してみると次のようなものがあった。
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