日裏 勝己 (印南町長)
「かつお節発祥の地」
印南町がかつお節発祥の地で、江戸時代に印南漁民三人衆によって、全国各地に製法を伝えました。もとより印南漁民は、紀伊半島周辺で漁を営んでいましたが、それぞれの地域に縄張り的なものがあり、結果的には漁場から締め出されてしまいます。苦肉の策として、宮崎県日向方面での漁に出かけるようになります。時は江戸時代、通漁の始まりで、藩の規則により一年間のうち10カ月は出漁出来ても、2カ月は地元に帰らなければなりません。1600年中期、土佐(高知県)足摺岬沖臼碆 (うすばえ)に、豊富な鰹漁場を発見したのが初代角屋甚太郎で、以来、その地に仮住まいを構えてかつお節の製造を行い、延宝年間(1673年~)二代目甚太郎が、長期保存のできる「固乾(こかん)改良土佐節」を開発いたしました。その後、宝永4年(1707年~)【宝永南海地震津波の起きた年】森弥兵衛は枕崎(鹿児島県)に、天明年間(1781年~)印南與市は安房(あわ)(千葉県)に、享和元年(1801年)には伊豆(静岡県)に製法を伝えます。こうして全国の主要産地にかつお節の製造方法が伝えられ、今なおその製法は引き継がれています。幾多の困難を乗り越え印南漁民によって開発され、各地に広められたかつお節が、和食に欠かせないものとして日本だけではなく世界に広がっていることは、印南町民の誇りであります。350年経った今もなお、主要産地で製造が続けられているその歴史と伝統の積み重ねに、心から敬意と感謝を申し上げたいと思います。
「地震と津波」
宝永4年(1707年)10月4日に発生した宝永南海地震津波(M8.6)により、印南で175名の犠牲者と記録されていますが、実際は300名を超えたとも伝わっています。印南町印南の印定寺には13回忌に奉納された津波溺死霊名合同位牌と霊魂之墓碑があり、その時の残酷を極めた様子が克明に記録されています。今も残る宝永南海地震津波記念碑によって、印南に住むすべての人に伝承され、約150年後の安政元年(1854年)12月24日に発生した安政南海地震津波(M8.4)には、一人の犠牲者も出していません。理由は簡単で、人々が素早く避難したからです。150年前からの言い伝えと宝永の津波碑によって脈々と伝承されたからであります。 安政南海地震から92年後、昭和21年(1946年)12月21日に発生した昭和南海地震津波(M8.0)では、16名の犠牲者を出しています。安政の成功が宝永から得た教訓を後世に伝える努力を鈍らせたのかもしれません。 南海を震源とする地震は平安前期から10回発生し、平均106年間に一回発生しています。昭和地震からは今年で77年経過し、後29年で平均に達することになります。災害から住民を守る事、一人の犠牲者も出さなかった教訓を現実のものとしなければならない責任を感じています。 それぞれの町や地域が生き抜き発展した陰には、その町特有の歴史とそこから文化が育ちます。先人が育て守ってきたその想いを肝に銘じ、行政を進めていかなければならないと改めて思っています。
【想うがままに】
■第1回 地方行政一筋 ~我が人生の半世紀~
前みなべ町長
山田 五良
■第2回 私が最近感じていること
前北山村長
奥田 貢
■第3回 2期目に向けての所感
元かつらぎ町長
山本 恵章
■第4回 初心忘るべからず
有田川町長
中山 正隆
■第5回 蓬州 小山肆成
元白浜町長
立谷 誠一
■第6回 一期目四年間を振り返り
前紀美野町長
寺本 光嘉
■第7回 行政運営は、町民とともに
前
上富田町長
小出 隆道
■第8回 「日本一元気なまち」を目指して
九度山町長
岡
本
章
■第9回 故郷に想う
前由良町長
畑中 雅央
■第10回 初心を忘れず粉骨最新で
広川町長
西岡 利記
■第11回 先人に学び想いを形に
印南町長
日裏 勝己
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